{"title":"Essay","description":null,"products":[{"product_id":"エッセイ-佐久間裕美子さん-2026-国際女性デーに寄せて","title":"2026 国際女性デーに寄せて。｜佐久間裕美子（Yumiko Sakuma）","description":"\u003ch3 dir=\"ltr\"\u003e\n\u003cspan\u003eストーリーを語ろう\u003c\/span\u003e\u003cb\u003e\u003c\/b\u003e\n\u003c\/h3\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　「女性の連帯」というコンセプトに、複雑な気持ちを抱くようになってしまった。女子校に育ち、それしか知らなかった子供としての自分から、女性という生き物が苦手なのだと思ってしまった時代を経て社会に出て、一つひとつの人間関係を通じて、自分の周りに張り巡らしていた壁を溶かすことができるようになった。市民運動やアクティビズムと出合って、一人ひとりの力を束ねることで大きな力に変えることを夢見るようになり、大局で同じ方向を見ているのなら、連帯できるのだと信じようとした。けれど、今、やっぱりそんなに単純ではなかったなと実感するフェーズを生きている。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　たとえば、SNSで横行する被害者叩き。性犯罪に遭った人に「そんな自撮りを撮ってるから」「露出しているから」と、責めるコメントが連なる。たとえば、「せっかく女に生まれたんだから、子供を産んでなんぼだよ」と、いきなりやってくるカジュアルな善意風のおせっかい。たとえば、他人の外見や服装を揶揄したり、批評したり、ジャッジする行為。たとえば、知らない女性を敵、競争相手とみなすこと。たとえば、誰かを攻撃するためににわかに立ち上がる集団行動。誰かを排除するために考案された「女性スペースを守る」という概念。完璧なロールモデル、ルッキズム、ボディシェイミング、マイクロアグレッション……\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　こういうことが、日々、世界のそこここで無数に起きている。どれだけの人を傷つけたり、もやもやさせたりしているだろうか。こういうこととどう付き合っていけばいいのか。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　俯瞰で見てみると、こうやって女性が女性のことを傷つけたり、ジャッジしたり、断罪したり、排除したりすることは、すべて家父長制度のたまものなのだと思う。私たちは一見自由に見える社会に生きているけれど、実際は、そんなに自由じゃない。家族を作れ、子供を作れ、女は僕（しもべ）で子供は財産であり、労働力。こうした枠組みに逆らわずに生きれば、屋根や食べ物は保障される。その枠に入りたくない人は社会のメインストリームから排除されるし、誰が女で、誰が女でないかはきっちり精査される。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　多くの人たちがこのシステムのなかで生き残ろうと葛藤する。がんばっている人は、そのシステムを守ろうとするかもしれない。そのなかで、優越感を発露する。ついでに誰かを傷つけていく。ただ平和に存在したいだけの人びとを。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　誰もが同じ権利を与えられる社会への闘いは、想像していた以上に困難で、私たちを打ちのめす。ゴールは近づくどころか、前に立ち塞がるハードルはむしろ増えているみたいだ。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　でも、大丈夫。今そう思わせてくれるのは、何かをきっかけに自分の言葉を得た人たちがつむぐストーリー。会社から、家族から、社会から課されているいろいろな不条理に気がついた女性たちが、自分の痛みを語り出したこと。そしてそうした物語が、自分が暮らす地域や場所の外からも流れ出し、互いを見つけあい、傷やトラウマが人を繋ぐつながりが、日々、生まれていること。誰かのストーリーが、どこか遠くの誰かに届き、その人の精神を救うこと。一度、精神の呪縛に解放されたら、元に戻ることはできない。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　だから、自分を生きよう。悲しい思いも、悔しい思いもめいっぱい感じながら、自分を生きよう。互いを大切にしよう。肩を貸し合おう。互いの自己決定権とバウンダリーを尊重しながら、共に生きよう。そして、お互いの存在を喜びあいながら、自分たちの暮らしの、そして営みのなかに喜びを見つけよう。私たちは、大丈夫。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e \u003c\/p\u003e","brand":"koko-no-me","offers":[{"title":"Default Title","offer_id":53823056380267,"sku":null,"price":0.0,"currency_code":"JPY","in_stock":true}],"thumbnail_url":"\/\/cdn.shopify.com\/s\/files\/1\/0978\/3469\/7067\/files\/829b47dd325319def52ef239b565f14c.jpg?v=1788831161"},{"product_id":"エッセイ-富永-京子さん-2026-国際女性デーに寄せて","title":"2026 国際女性デーに寄せて。｜富永 京子（Kyoko Tominaga）","description":"\u003ch3 dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e美しさを、自分のものにするまで。\u003c\/span\u003e\u003c\/h3\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　数年前からファッション雑誌の仕事に携わっている。テレビ番組に出演した際、私の服装などを見た編集長の方からご依頼いただき、その後しばしば登場させていただいている。「美しい」ものを紹介する媒体なのだから、そこに出てくる人もアイテムも皆美しい。そこにきて、自分を「美しい」と思い込むことのなんと難しいことかと愕然とする。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　同じことはテレビ番組やネット番組の出演に関しても同様で、いまだに私は、テレビやネット番組で、それなりに美しく仕上げられた自分の顔が大写しになると戸惑う。多くの人の目に触れるのだから美しくしてもらうのは当たり前なのだが、自分が美しい状態だということ、自分を美しいと思うことに屈託がある程度には、私の自意識は脆弱である……。というか、捻じ曲がっているというか、とにもかくにも素直ではない。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　一方で驚いたのは、メディアに出る人びとの美意識の鋭さと細かさだ。スタイリストやメイクの方は、髪の毛の巻き方からまつ毛の上げ具合に至るまで、さまざまな質問を重ねながら私たちの姿を仕上げる。メイクルームにいる人は誰しも、自分の顔の美しいところをよく知っていて、皆、自分のなりたい顔、髪型について、極めて細かい指示を出すことができる。39歳にして気づくのはさすがに遅すぎるだろうが、美しさやかわいさから逃げてきた私は「かわいい」や「美しい」がこれほどにも細かく、自意識が極めて細分化されていることに初めて知った。痩せているとか、目がぱっちりしているとか、美しさを語る私の言葉はそこら辺の小学生と大差なく、いや小学生以下かもしれない。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　もうひとつ気づいたことがある。私はメディアに出る人を、もっぱら見られるための存在、悪く言えば容貌を消費されるだけの存在だと思い込んでいた。「究極、誰も見ていなくても、完璧なEラインで映りたいからね」と隣の席で笑って語る演者さんを見て驚いた。愚かにも私は、容貌の美しさというものが、他者に見られ評価されるためにだけあると思っていたためだ。私の凡庸な想定とは裏腹に、彼女ら彼らは自分が美しいと思う自分を極めている。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　こうした美意識と自意識は、なにも公に出る彼ら彼女らだけの特質ではないように思う。たとえテレビのワイプでなくとも、インスタのストーリーズやBeRealの一瞬を通じて、自分で自分の姿を確認する機会はおそらく劇的に増えている。そうなれば重要なのは、他人から見た自分よりももっぱら自分から見た自分になり、美のこだわりは単に痩せてるとか目が大きいとかいう最大公約数的なものよりもっと細かいものになるだろう。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　こうしたことがらは、「消費社会に踊らされて……」「ルッキズムが……」「他者の目線の内面化……」といった、私が繰り返し耳にし、私自身も言ってきた紋切り型の批判で容易に斬られうるものだとも思う。じっさい「完璧なEライン」は美容整形外科が用意した基準かもしれないし、結局自分の好きな自分といっても、日本社会において最大公約数的に美しいとされる表象とあまり変わりはないのかもしれない。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e\n\u003cp dir=\"ltr\"\u003e\u003cspan\u003e　ただ、私がメイクルームで経験したさまざまな事柄－－「バーガンディ」と「ボルドー」の僅かな違いが生み出す印象の差、スタイリストさんが「波巻き」を作る手つきーーそういうものを見て感じた新鮮な驚きは、そんな古い紋切り型で切るにはあまりに豊かだ。必要以上に他人と自分を比較して劣等感に陥り、かわいい、美しいという形容から自己をなるべく遠ざけ、なんならその基準にも敢えて乗らないようにして40年近く過ごしてきてしまった私には、たとえ地球でカメラと自分だけになっても美しくあろうとする、彼や彼女の姿は眩しくて気高い。彼らのあたらしい自意識も美の取り扱いも、時代遅れな私の葛藤などすでにとうに飛び越えていた。\u003c\/span\u003e\u003c\/p\u003e","brand":"koko-no-me","offers":[{"title":"Default Title","offer_id":53823076204907,"sku":null,"price":0.0,"currency_code":"JPY","in_stock":true}],"thumbnail_url":"\/\/cdn.shopify.com\/s\/files\/1\/0978\/3469\/7067\/files\/db76f297a8926011437511110dc0f340_065befc5-f95b-48bc-8eca-03cb2a48e85d.jpg?v=1788832082"},{"product_id":"エッセイ-みたらし加奈さん-2026-国際女性デーに寄せて","title":"2026 国際女性デーに寄せて。｜みたらし加奈（Kana Mitarashi）","description":"\u003ch3\u003eいま、わたしたちに何ができるのか\u003c\/h3\u003e\n\u003cp\u003e　国際女性デーが近づくと、「女性の活躍」や「エンパワーメント」という言葉を目にする機会が増える。でも現場にいると、その言葉と現実のあいだにある距離を、どうしても無視できない。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　カウンセリングに訪れる人たちは、「差別されました」とはあまり言わない。むしろ、「私が弱いから」「うまくできない自分が悪い」と語ることのほうが多い。でも、その語りの背景を丁寧に辿っていくと、見えてくるものがある。求められすぎる気配り、引き受けすぎてしまう責任、言葉にしづらい違和感。それらは個人の性格ではなく、社会のなかで静かに刷り込まれてきたジェンダー役割の影響でもある。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　フェミニズムとは本来、この「個人的に見える苦しさ」を社会の問題として捉え直すための視点だ。感じている苦しみを個人の努力や我慢で乗り越えるのではなく、「なぜそうならざるを得なかったか」を、社会に視点を置いて問い直す。その観点を持つだけで、同じ出来事でも解釈の意味が変わることがある。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　たとえば、頑張りすぎてしまうこと。人に頼れないこと。自分の感情より周囲を優先してしまうこと。それらを「性格」として片付けてしまえば終わりだけれど、本当にそうなのかと立ち止まることはできる。その人のなかで何が繰り返されてきたのか、どんな期待を背負わされてきたのか。そこに目を向けると、「これは個人の問題ではないかもしれない」という視点が立ち上がる。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　海外では、こうした視点はトラウマインフォームドケアのなかで共有されている。「あなたに何が起きたのか」という問いは、その人を責めるのではなく、背景を理解しようとする姿勢だ。この考え方は、日本でももっと広がっていいはずだ。なぜなら、苦しさの多くは個人の中に閉じ込められているけれど、その原因は必ずしも個人のなかにあるわけではないから。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　では、私たちは何ができるのか。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　ひとつは、自分のなかにある違和感を無視しないことだ。「なんとなくおかしい」と感じたことを、そのまま流さない。大げさな主張でなくてもいいから、「これは本当に“当たり前”なのか」と一度立ち止まること。その小さな問いが、思考の起点になる。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　もうひとつは、「頑張り方を疑う」ことでもある。いまの社会は、努力や適応を過剰に求める傾向がある。でも、それに応え続けることが、本当に自分を守ることにつながっているのか。無理をしている自分に気づいたとき、「もう少し別のやり方があっていいのではないか」と考える余地を持つこと。その選択が広がったとき、構造的な役割を手放すきっかけになる。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　そして、ケアを軽く扱わないこと。ケアは後回しにされがちだけれど、本来は生きていくための土台に近い。「カウンセリングが必要だ」と話す人は増えたが、実態として、カウンセリングを受けたことがある人は少ない。専門家でなかったとしても誰かに話すこと、理解されること、自分の状態に気づくこと。それらは特別なことではなく、必要なプロセスである。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　フェミニズムとは、「これまで当たり前だと押し付けられてきたものを問い直す」という営みそのものだと思う。その問いは、静かでもいいし、小さくてもいい。ただ、それを持ち続けることが、結果的に社会の形を変えていく。たとえアクションに移さなかったとしても、人びとの意識が変容していくだけで社会に変化をもたらす。私たち心理職は、その「集合的無意識」と呼ばれるものを信じているからこそ、構造的格差にも応用できると実感している。\u003c\/p\u003e\n\u003cp\u003e　国際女性デーという機会を、整えられた言葉だけで終わらせないこと。その日に感じた違和感や引っかかりを、自分のなかに残しておくこと。それだけでも、十分に意味のある一歩になるのかもしれない。\u003c\/p\u003e","brand":"koko-no-me","offers":[{"title":"Default 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