2026 国際女性デーに寄せて。|富永 京子(Kyoko Tominaga)
美しさを、自分のものにするまで。
数年前からファッション雑誌の仕事に携わっている。テレビ番組に出演した際、私の服装などを見た編集長の方からご依頼いただき、その後しばしば登場させていただいている。「美しい」ものを紹介する媒体なのだから、そこに出てくる人もアイテムも皆美しい。そこにきて、自分を「美しい」と思い込むことのなんと難しいことかと愕然とする。
同じことはテレビ番組やネット番組の出演に関しても同様で、いまだに私は、テレビやネット番組で、それなりに美しく仕上げられた自分の顔が大写しになると戸惑う。多くの人の目に触れるのだから美しくしてもらうのは当たり前なのだが、自分が美しい状態だということ、自分を美しいと思うことに屈託がある程度には、私の自意識は脆弱である……。というか、捻じ曲がっているというか、とにもかくにも素直ではない。
一方で驚いたのは、メディアに出る人びとの美意識の鋭さと細かさだ。スタイリストやメイクの方は、髪の毛の巻き方からまつ毛の上げ具合に至るまで、さまざまな質問を重ねながら私たちの姿を仕上げる。メイクルームにいる人は誰しも、自分の顔の美しいところをよく知っていて、皆、自分のなりたい顔、髪型について、極めて細かい指示を出すことができる。39歳にして気づくのはさすがに遅すぎるだろうが、美しさやかわいさから逃げてきた私は「かわいい」や「美しい」がこれほどにも細かく、自意識が極めて細分化されていることに初めて知った。痩せているとか、目がぱっちりしているとか、美しさを語る私の言葉はそこら辺の小学生と大差なく、いや小学生以下かもしれない。
もうひとつ気づいたことがある。私はメディアに出る人を、もっぱら見られるための存在、悪く言えば容貌を消費されるだけの存在だと思い込んでいた。「究極、誰も見ていなくても、完璧なEラインで映りたいからね」と隣の席で笑って語る演者さんを見て驚いた。愚かにも私は、容貌の美しさというものが、他者に見られ評価されるためにだけあると思っていたためだ。私の凡庸な想定とは裏腹に、彼女ら彼らは自分が美しいと思う自分を極めている。
こうした美意識と自意識は、なにも公に出る彼ら彼女らだけの特質ではないように思う。たとえテレビのワイプでなくとも、インスタのストーリーズやBeRealの一瞬を通じて、自分で自分の姿を確認する機会はおそらく劇的に増えている。そうなれば重要なのは、他人から見た自分よりももっぱら自分から見た自分になり、美のこだわりは単に痩せてるとか目が大きいとかいう最大公約数的なものよりもっと細かいものになるだろう。
こうしたことがらは、「消費社会に踊らされて……」「ルッキズムが……」「他者の目線の内面化……」といった、私が繰り返し耳にし、私自身も言ってきた紋切り型の批判で容易に斬られうるものだとも思う。じっさい「完璧なEライン」は美容整形外科が用意した基準かもしれないし、結局自分の好きな自分といっても、日本社会において最大公約数的に美しいとされる表象とあまり変わりはないのかもしれない。
ただ、私がメイクルームで経験したさまざまな事柄--「バーガンディ」と「ボルドー」の僅かな違いが生み出す印象の差、スタイリストさんが「波巻き」を作る手つきーーそういうものを見て感じた新鮮な驚きは、そんな古い紋切り型で切るにはあまりに豊かだ。必要以上に他人と自分を比較して劣等感に陥り、かわいい、美しいという形容から自己をなるべく遠ざけ、なんならその基準にも敢えて乗らないようにして40年近く過ごしてきてしまった私には、たとえ地球でカメラと自分だけになっても美しくあろうとする、彼や彼女の姿は眩しくて気高い。彼らのあたらしい自意識も美の取り扱いも、時代遅れな私の葛藤などすでにとうに飛び越えていた。
富永京子
1986年生まれ。専攻は社会運動論、文化社会学。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て現職。若者文化を通じて、日本社会における社会運動と政治関心の戦後史を研究。新聞、ニュース番組、ファッション誌、カルチャーメディア、文芸誌など幅広い媒体で発信を行いながら、社会変革と文化の接点を探り続けている。ポッドキャスト番組「仕事の合間」MC。